娘に保育園と小学校時代のことで覚えていることを聞いても
保育園時代も小学校時代も、殆ど覚えていないと言います。
保育園時代
保育園は年少から加配付で入り、最短の16時までお預かりで
週3日か4日という限定での預かり保育でした。
夏の間は、ほぼ毎日プール授業で、公立保育園なのでおやつもしっかりでて
果物も毎日出ていたので豪華だなぁと思っていました。
初年度の園長先生は、凄く良い先生で親切で優しかったです。
2年目の園長先生は、外面が良いだけの性格のきつい先生でした。
娘も慣れてきたので週5預けたいとか、もう少し時間を延長したいと申し出ても
呼び止められて週5はだめよときつく言われた記憶があります。
結局、あまった日は、別の療育に通ったり習い事したり
放課後ディを利用したりして過ごしていました。
この頃の娘は、そんなにお話も上手ではなく、お友達からは
なんでこのクラスなの?小さいんだからもっと下のクラスじゃないの?
あかちゃんでしょ?って事もよく言われていました。
療育センターも歩けるようになると、どうしてここにいるの?って
他のママさんに言われたり「幼稚園とか保育園に行かせなよ」とか
とにかくこの時期の居場所作りには苦労しました。
民間の療育で運動リハしていた時も、そのリハの先生に
支援学校の小学校の方が良いんじゃないかって言われたり・・
リハの先生も色々いました。
年長さんの時に進路希望を「普通学級」と考えていましたが
保育園の担任の先生に強く反対され、現実が見れていないと実感したのは
卒対のアルバム担当になった際に、クラスのみんなの写真が
私の所に集まってきたときに、あー娘はクラスに入れていないんだなと感じ
とても切ない気持ちになりました。
グループ活動の写真を見ても、娘は他のお友達と距離が離れていたし
やっぱりなかなか意思疎通が難しいところがあったようです。
それで、いろいろ考えて小学校は支援学級にしようと思い至りました。
結構ギリギリ判断でした。
小学校時代
小学校時代は、習い事や療育や放課後ディとか、ぼんやりと覚えているだけみたいです。
小学校低学年の時の担任の男の先生は
私や保護者に対しては凄く好青年風に話すもので、しばらく騙されていました。
娘の様子も特に変わりはなかったですし・・・
でも、あるママに「変わった様子ない?家で何か言ってない?」と
頻繁に言われるようになり、どういうことなのかを聞いたら
この担任の先生が、実は教室で物凄く暴言をはいたり大声で怒ったりしていると
娘の吃音を笑ったりもしているようなことを聞きすぐに行動に移しました。
後で聞いて酷いと思ってやめさせたこともあります。
・給食の時間中に食べ終わらなかったらいったんラップして
掃除の後に再び食べさせていた。
→これはすぐに辞めさせました(怒
好き嫌いで食べないわけではなく、早く食べるのが難しいだけで
かつ小食なのと、食べるのを嫌いになってほしくない
(経管栄養でどれだけ苦労したと思っているの)
・体育の着替えの時、教室で着替えていた
男の先生の前で娘が着替えていた
→ありえないのでやめてくださいとやめさせました。
せめて女性の先生に見守ってもらえないかと相談
(低学年は教室で先生見守りで着替えさせている
中学年は別室で着替えさせているという弁明だった)
・他の生徒を怒鳴っている
→娘は大きな声が苦手なので、恐怖を感じるのでやめてください。
とこれについては、他にも問題がありママ友と校長先生へ
最終的に男の先生は、普通学級の担任に移動になりました。
高学年はコロナの影響もあり、いろいろ活動がとまりましたし
習い事もやめたりといったかんじでした。
小学校の途中で普通学級に移動する話もしました。
これは先生からではなく、私と旦那で学校に交渉したことですが
普通学級に1週間体験で生活させて様子をみて
そのあと、校長先生や他の先生方と一緒にどうするか相談した結果
普通学級と支援学級の先生は反対していて雲行きとしては
支援学級となっていた所、旦那が何か話して(詳細忘れた)
そのあと校長先生が、別に普通学級に行っても良いと言うようになり
流れは変わったのですが・・・
娘が安心して通えるかという自信が持てず
とりあえず中学から普通学級にしようかなと、この時点での判断でそうしました。
小学校は支援学級のある所ということで、学区外でしたので少しだけ遠い場所でした。
歩いていけなくはないけれど娘には厳しい感じでした。
学区内に転校すべきかという会話もしていたように思いますが
これについては、学校は変わらない方が良いとなりました。
この時期は、あまり家で学校でのことを話してくれないため
状況が分かりにくく判断が難しかったです。
支援学級のお友達は、みんな状況が異なっていました。
娘と同じような子はいなくて(吃音・運動できない・小さい)
殆どの子が走り回ったり元気いっぱいという感じでした。
支援学級でもおしゃべりは普通に上手な子もいました。
どうしてこの子がここに?って思うような子も結構いました。
ピアノ教室に通っていてピアノが少し弾けた娘は
みんなの前で披露した事もあるようですが、本人はあまり覚えていなさそうです。
支援学級は、人数が少ないからこそ合う子がいれば良いかもしれませんが
そうでない場合は、同じ空間で一緒に学ぶには難しい事もあり
先生も療育のプロではないので、その時の先生によって対応も異なるので
運が非常に左右される環境だなと思いました。
情緒不安定な子も多く、暴れん坊の男の子が多い印象でした。
なので支援学級でも、娘の居場所と思える場所ではないなと感じていました。
ちょうど良い居場所って難しいなと思いました。
その一方で私も「転ばぬ先の杖」の如き動きすぎていた時期でした。
今思えば、かなり神経質に過ごしていました。
何故ならこの時期って将来の不安とか先の不透明さもあって、不安しか感じなかったからです。
そして、親戚や支援学級のお友達が、娘を見てどうしても下に見るのが耐えられず
漢検持っている娘に対して「漢字読める?XXが読んであげようか?」と言われたり‥
娘はこの時代の事を殆ど覚えていないようですが、私もぼんやりしてきました。
小学校の時に普通学級へ移ってたらどうなっていたかな?と考えても仕方ないので
それよりも次の進路に向けて今は考えています。